からの続き

退院直後の職場
解離性大動脈瘤は保存療法を継続しつつ、退院して半月が過ぎ、世の中は小泉純一郎が旋風を巻き起こしていました。
2001年7月初頭の頃です。派遣会社の管理職が珍しくやってきて言いました。「減産の計画が出ました、まぢ気が重いです~」と、そう、この言葉こそ「派遣切り」が始まる合図です。私の所属している部署は一年~二年の余裕はあるという事でしたが、最終的には配置転換は避けられないようでした。

人が少なくなれば、やるべき仕事も増えます。生死にかかわる大病を抱えて、この半月の間も今日が最後かと思いながら業務をこなしてきていたので、「そういう予定なら、今月いっぱいで退社したいのだけど、だめかな?」と申し出ました。

退職へ
管理職には色々と掛け合ってもらって、私より優秀な人材に来て貰う事も決まって、7月末日での退社が決まり、自己都合であるにも関わらず、会社都合での退社扱いにして貰えるなど、至れり尽くせりで円満退社となりました。

別れ
他の派遣スタッフ達もほぼ全てが段階的に他企業への転換となり、この7月は大送別会が連日のように行われました。飲みに行ったり、家で鍋を囲んだり、鬼怒川での慰労キャンプの話や、職場での恋愛の話、それぞれの故郷の話など、とりとめのない時間がそこにありました。一人また一人とだんだん少なくなっていって、皆で泣いたなぁ・・・。それっきりの仲間となってしまったけど、間違いなく私の人生の一部であり、私の人生そのものでもあります。東北出身者も多くいたのですが、あの震災・・・無事であると信じます。
私のGPZ400Rを買ってくれた彼女も元気でやっているのかなぁ・・しみじみ。
IMG_20180511_192408
(バイクの写真もこれが唯一、大学二年の頃、千葉ポートタワー近く)


なんでもないようなことが幸せだったと思う、なんでもない夜のこと二度とは戻れない夜・・・

そんな7月が終盤に近付き、有給を消化し、7月が終わりました。離職票や退職証明等の発行に一週間程かかるとのことだったので、会社借り上げの寮にそれまでは居たかったのですが、私の代わりに入る人が住む部屋がないとのことで、一週間は「おとうさん(というあだ名のナイスガイ)」の家に居候しました。彼は、元プロのギタリストで、ホントに上手い(この居候の時まで知りませんでした)。私も昔、バンドやってたことや、歌手も目指したこともある話などで一週間盛り上がりまくりましたねぇ・・もっと早く、知り合っていれば、またバンドやってたかもなぁ・・青森出身で半端ない歌唱力の人(名前思い出せない)も居たのになぁ・・・今更ながら勿体なかったなぁ。

管理職から書類できましたとの連絡で宇都宮の事務所まで書類を取りに行き、その日は、管理職とおとうさんと岩ちゃんとお別れ会をしました。

翌日は、岩ちゃんも休みだという事で、彼の故郷の平塚まで行こうという事になって、栃木県小山市での最後の夜は更けていったのでした。

たった二年住んだだけの土地でしたが、とても思い出深い、疎遠にこそなりましたが、魂で分かり合えた仲間と出会った場所でした。携帯カメラなども無い時代だったので、写真が一枚も無いのが悔やまれます。

雑感

生死にかかわる大病の発症と入院、そして、仕事を失う・・そして、書いてませんが彼女との別れという大きな出来事がほんの3ヵ月程度の中で起こってしまいます。そこだけを切り取れば、不幸極まりない時期となりますが、この事があったからこそ、命の大切さを知り、仲間の有難さを知り、愛の奥深さを知るのです・・登り坂と下り坂が同じ距離であるように、良い事と悪い事というのは同じ量あって、考え方によってどちらが優位かを変更できるということなんだと私は考えているのですよね。だから、常に前向きでありたい。

****次回、youは何しに平塚へ・・・ 



****************************************************************************
当ブログは ↓ の内容を知って貰いたく書いております。

糖尿病性足壊疽の切断を回避した証明写真(グロいです)

お時間ありましたら読んで頂けるととても喜びます。
*****************************************************************************