2022年6月8日 本日の鹿児島県北西部は快晴

今年に入って死亡者急増なのだとか・・・そう言えば、友人のお母さんも脳梗塞で倒れて亡くなられた。流行り病やお注射との関連など誰も明らかにすることはないと思うけど、モラリスト文学の最高峰であったモンティーニュ氏なら今のこの世界をどう捉えるのだろうか・・・と思う。

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ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ
(1533年2月28日 - 1592年9月13日)16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者で、モラリスト、懐疑論者、人文主義者。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、ヨーロッパの各国に影響を与えた。

エセー
『エセー』(随想録)Essais は、モンティーニュの著作で、フランスのモラリスト文学の基礎を築いた。1572年以降に執筆をはじめ、1580年にボルドーで刊行された(初版、2巻本)。1582年に再版され、続いての出版は、1587年にパリとルーアンであった。その後、1588年に第3巻及び初版(2巻)への大幅な加筆を行い刊行した(1588年版という)。以後は新版の出版のために執筆活動をつづけ、晩年も死去の直前まで本の余白に書き込みを行っており、この書き込みも含めて定本とされている。彼の死後1595年、マリ・ド・グネルとピエール・ド・プラクは大きく改訂した新版を出した。

エセーの意味は<試み>である。体系的な哲学書ではなく、自分自身の経験や古典の引用を元にした考察を語っている。宗教戦争の狂乱の時代の中で、寛容の精神に立ち、正義を振りかざす者に懐疑の目を向けた。プラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカなど古典古代の文献からの引用が多く、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である。17世紀のデカルトやパスカルにも多大な影響を与え、後には無神論の書として禁書とされた(1676年)。

モンテーニュの目的は人間、特に彼自身を、完全に率直に記述することであると『随想録』の中で述べている。モンテーニュは人間性の大きな多様性と移り変わりやすさこそがその最大の特徴であると認識していた。「私自身というものよりも大きな怪物や驚異は見たことがない。」というのが典型的な引用句である。

モンテーニュは自身の貧弱な記憶力や、本当に感情的にはならずに問題を解決し争いを仲裁する能力や、後世にまで残る名声を欲しがる人間への嫌悪感や、死に備え世俗から離れようとする試みのことなどを書いている。

当時のカトリックとプロテスタントの間の暴力的で(モンテーニュの意見によれば)野蛮な紛争をモンテーニュは嫌悪しており、その書き物にはルネサンスらしからぬ悲観主義と懐疑主義が覗いている。

総じて、モンテーニュはユマニスムの強力な支持者であった。モンテーニュは神を信じ、カトリック教会を受け入れていたが、神の摂理がどのような意味で個々の歴史上の出来事に影響していたかを述べることは拒否していた。

新世界の征服に反対しており、それが原住民にもたらした苦しみを嘆いていた。


マルタン・ゲール事件を例に引きながら、モンテーニュは人間が確実さを獲得できないと考えている。その懐疑主義は、セクストスなどから影響を受け、『レイモン・ズボンの弁護』という長いエセーに最も良く現れており、この章はしばしば単独でも出版されてきた。我々は自身の推論を信用できない、なぜなら思考は我々に起こるものであるから。我々は本当の意味ではそれらをコントロールできない。我々が動物よりも優れていると考える相応の理由はない。モンテーニュは拷問によって得られた自白には極めて懐疑的で、そのような自白は拷問から逃れるために容疑者がでっちあげたものかもしれないと指摘している。通常「知識は人を善良にはできない」と題されている節において、モンテーニュは自身のモットーが「私は何を知っているのか?」  であると書いている。ズボン弁護のエセーは表面的にはキリスト教を弁護している。しかしながら、モンテーニュはキリスト教徒ではない古代ギリシア・ローマの著述家たちに言及し引用しており、特に原子論者ルクレティウスに多く言及している。

モンテーニュは結婚を子供を育てるためには必要だと考えていたが、恋愛による激しい感情は自由にとって有害なものとして嫌った。「結婚は鳥籠のようなものである。その外にいる鳥は必死になって入ろうとするが、中にいる鳥は必死になって出ようとする。」という言葉がある。

教育に関しては、抽象的な知識を無批判で受け入れさせることよりも具体的な例や経験の方を好んでいた。「子供の教育について」というエセーはディアヌ・ド・フォワ(フランス語版)に捧げられている。