2021年9月29日 本日の鹿児島県北西部は快晴。

残暑ですねぇ・・体調崩されないように楽しんでお過ごし下さい♬
さて、水曜日なので哲学記事を書きます。

前回までの内容で、旧約聖書のさわりを紹介したのですが、旧約聖書というカテゴリについては、モーセ五書以降の配列に二つの派閥というか二つの形式が存在します。それがヘブル語版の旧約聖書と、ギリシャ語版(セプテュアギンタや70人訳と呼ばれる)の二つです。

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(朝顔は力強くて良いですね。)


ヘブル語版
ヘブル語版の旧約聖書では「律法」「預言者」「諸書」という配列になっており、律法がモーセ五書まで、預言者がヨシュア・士師記・サムエル・列王・イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・12預言者、そして諸書が 「真理」について書かれた、詩編・箴言・ヨブ 、「五つの巻物」と呼ばれる、雅歌・ルツ・哀歌・伝道者・エステル 「その他三巻」としてダニエル・エズラ・ネヘミヤという配列になっていて、本当ならばコチラが正道となるべきですが、現在のキリスト教が採用するのはギリシャ語版の方です。

ギリシャ語版
ギリシャ語版の構成は大まかには「過去」「現在」「未来」という配列に再編されていて、モーセ五書までが過去、ヨブ記と五つの巻物の内容が現在、イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・哀歌・ダニエル・ホセア・マラキが未来という感じで並んでいます。紀元前200年程からヘブル語からギリシャ語への翻訳がされていったと言われていますが、その作業の中で、元々の聖書には無い外伝のような話も追加されて行ったそうです。そして、このギリシャ語版のユダヤ教が現在のキリスト教の基礎と・・と言うか前史となっています。

キリスト
キリストの一連の出来事を経て後にキリスト教が成立するのですが、キリストが行ったことが何だったのかを考えると、一番大きな事は旧約聖書の縛りからの人類の解放と信仰による神の臨在の実現だろうと思います。旧約聖書の中で語られる神と人類の関係は常に「ギブ&テイク」であり、常に人類が苦役を強いられる非常に不公平な契約でした。そこで、キリストは全ての罪を背負って自らが神への生贄となることで、人類を永遠の生贄の呪縛から解き放ち、偶像崇拝を断ち切ることを画策し、見事にやってのけたのでした。人の命はこの世界に存在する全てと等価であり生死に価値はなく、信仰こそが最も崇高なものであることを示した訳です。キリストの死後は、キリストの近くに居た人々がキリストの生き方について伝承し、キリスト教として浸透していく訳ですが、裕福な人が少なかった時代ですから、ユダヤ教に準じて生きて来た人にとっては「毎年お金のかかる儀式をしなくて済む」「生贄の羊を用意しなくてよい」「捧げものもしなくてよい」という新しいユダヤ教の形でもあるキリスト教に傾倒していくのは普通のことだと感じます。キリスト教におけるユダヤ教の解釈は、キリスト教前史という扱いであって、過去にそういう理不尽契約があったのをキリストが解放してくれたんだという理由付けの為にあるのだろうと私は思っています。

雑感
このような話を総合していくと、西洋哲学の台頭によってギリシャ語が強くなり、ギリシャ語に翻訳されたユダヤ教がヘブル語のユダヤ教を押さえて時代の主流となって、さまざまな創作も含めた話と混ざる中で熟成されてキリストと接続されキリスト教となり、ローマ帝国が国教として取り入れた事を契機に、他国侵略とローマへの忠誠を確かめる道具として洗練され、そのノウハウは後の大航海時代の植民地政策へと引き継がれることになります。ともかく、キリストは釈迦と同様に「梵我一如」「偶像崇拝の排除」「悟るための修行は無駄で無意味」ということを説いた人であることは押さえておきたいことだと個人的に思います。大切なのは思考であり信仰(神をということではなく、信念や自信)であり他者への善の実践であり、この事は哲学という学問の前提にあるように感じます。この辺のことはまたスコラ哲学の辺りで書きましょう。
次回は紀元元年頃の哲学・・いよいよ紀元後へと参ります。

キリストに関しては新約に出て来る「魔術師シモン」辺りの話も面白いので興味があればググってみて下さいね。