2021年9月1日 本日の鹿児島県北西部は曇り時々晴れ。

とうとう9月ですね。来月は秋真っ只中・・一先ず残暑を乗り越えましょう♬
さて、水曜日は哲学デイ!モーセ5書も創世記と出エジプト記が終わりました。本日は3番目のレビ記について書いて行きます・・レビ記はストーリーというより説明的な内容なので今回は解説のような内容になります。所で、一昨日の事、友人から「みっちゃんってキリスト教徒なの?」と聞かれました・・私は無信教で思想的には中観仏教愛好家です・・・けど、人は情報の動物ですから、想像の世界も物理的な世界と同列に存在していると考えていますので、神もイデアもアカシックも霊も集合的無意識も、その本質は解らないけど「有るもの」として捉えています・・そう言う意味で新型コロナも有るものとして。

無題


レビ記

レビ記は「神とイスラエルの民が共存できるためには何をしたら良いのか」について語られる内容です。出エジプト記の終盤で幕屋の建設方法を伝授されたモーセが、いざ幕屋を立てて、神が幕屋に臨在できたことを確認したものの、モーセ自身は幕屋の中に入れなかったというオチがついた訳ですが、レビ記では、幕屋に入れない程に罪を犯したイスラエルの民の贖罪のやり方と、生活の送り方、神と連携するための方法について具体的に語られて行きます。神とは他を圧倒するほどに清く聖なる存在なので、その住処に入ることのできる人間もまた非情なる高潔さと正しさが求められます。そこで、イスラエルの民と神を接続する役割として、大祭司と祭司という役割を作りました。

清さ
神 > 大祭司 > 祭司 > イスラエルの民 という順番が求められる清さの大きさによる並びですが、神以外はそれぞれに守るべき決まりの厳格さが変わります。また、清さを実現するための方法として、レビの前半では贖罪の方法と祭りについて説明されます。

贖罪の方法(五つの方法)
〇全焼の生贄(神に繋がる場合は無条件に捧げられる)
〇穀物の捧げもの(全焼の生贄で願いが叶えられたと思った人が感謝して捧げる)
〇和解の生贄(予期せぬ良い事が起こった時に感謝して捧げる。この生贄は一部焼いた後食べて良い)
〇罪の為の生贄(無知や不注意から罪を犯した場合に捧げる)
〇財貨の為の生贄(犯した罪に対して、どうやって被害者に償うかを神に約束する時に捧げる)

上記の生贄によって、罪を犯しても免罪されるので、清さを維持する事ができる。
これらの儀式を正確に行う為に、大司祭や司祭に課される高潔さは非常に厳しく求められ、行動に関する決まり事も語られています。


七つの祭
過越の祭、種無しパンの祭、初穂の祭、五旬節、ラッパの祭、宥めの日、仮庵の祭

この中でも「宥め(なだめ)の日」は幕屋の最奥まで大祭司が行く事が可能な日らしく「イスラエルの暦の第七の月の十日に、イスラエルの民のすべては断食をして式に臨みなさい。この儀式を取り仕切る祭司たちは、まず自分の罪をきよめるために、罪のきよめの献げ物を献げて自分自身をきよめなさい。それから祭司はすべての人々のために、罪のきよめのささげ物を献げて、すべての民の罪をきよめなさい。それから大祭司が雄やぎ二匹を取り、一匹に手を置いて罪を告白して生きたまま荒野にそれを放つ。こうして大祭司は最後にもう一匹を罪のきよめの献げ物として屠って、その血をもって聖所の一番奥の部屋に入ることができる。」と書かれています。荒野に放たれるヤギはアザゼルのヤギと呼ばれますが、語源はよく判っていないようですが、エノク書などに悪魔という立ち位置でアザゼルが語られるので、「人々の罪と穢れを詰め込まれて魔物化したもの」という認識で良いように感じます。悪魔のアイコンってヤギを魔人化した感じのが多いですよね。ついでに、スケープゴートという言葉もアザゼルのヤギから来ているようです。

日常生活
祭りや贖罪の時の捧げものだけでなく、神は日常の生活における純潔の保ち方も教え、精液に触れた者、皮膚病の者、カビや菌に触れた者、死体に触れた者は、穢れを持つとされ、イスラエルの民は極力そうしたものと距離をとりました。当然、日常的にあることなので、触れてしまった後2週間ほど徹底した自粛をして過ごすという感じらしいです・・・死を印象させるものを身に付けて神の前に立ってはならないという事は徹底されたようです。他にも、食事についてもカシュルートという取り決めがあり、豚、ラクダ、血液、いか、タコ、海老、カニ、うなぎ、貝類、馬、宗教上の適切な処理がされていない肉、乳製品と肉料理の組合せは禁止されています。道徳面では貧しいものを見捨てずに気にかけ、性的にも高潔であり、自分たちの国で正義を追い求める・・そんな態度が求められました。

さて、これらの事を実践するように求められたイスラエルの民はどうなったのか・・・神との約束を破りまくって結局大きな犠牲を払うことになるのか・・・それとも?

次回・・民数記へと続きます。

雑感
この頃から神仏に捧げものをするという文化が始まっているんですね。仏壇に饅頭というのもどこかの段階でキリスト教から移植されたものかもしれませんね。そもそも、仏教もユダヤ教も偶像の崇拝に意味が無い事を言っているのですが、現代は偶像しか崇拝していませんね・・・大切なのはその思想に思いを寄せることなのに。ロザリオを拝んでも、仏像を拝んでも・・・拝むポーズだけでは何も変わりません。大切なのはそこに流れる哲学を理解して、その偶像の前に立つときに自分の哲学と先人達の哲学をリンクさせること・・・その内、偶像は必要なくなって、思考は自由になって行きます。偶像崇拝を愚直に忌み嫌うイスラム戦士達が正しいかと問われると、その暴力性は合理的ではないと思いますが・・・ともかく、ユダヤ教というのが今の地球を理解する上で非常に重要な思想の一つであることは知って欲しいと思います。