2021年7月14日 本日の鹿児島県北西部は超快晴。

海外からのオリンピック関係者・・・2週間の待機なんて他人事らしいですね・・・強制しなけりゃ普通にそうなりますよね。鎖国状態の日本では2年間でたった0.6%の感染者にとどまりましたが、オリンピックの開催で人が動く事により、このウイルスの真贋がはっきりするのかもしれませんね。大感染して惨事になれば「マジでやばいウイルス」ですし、この2年のデータと変わらない感染率と重症化率なら「インフルエンザ以下の何てことないウイルス」ということになります・・ってかできます。そう言う意味でもオリンピックを無理やり開催する意味はあると思います。今回のオリンピックで一番になっても嬉しくない局面もあるかもしれませんが、出場される選手達の全てを応援してますし、日本人として日本人の金メダルを期待します。さて水曜日ですね。哲学ネタを書いて参ります。

無題


紀元
今の日本で「紀元何年?」と問えば「西暦2021年です」と答えます。これは常識ですが、「それは本当に正しいですか?」と更に問えば、いくらかの人は不安になって「正しいかどうかは分からない」と答えるでしょう。哲学の命題の真偽を考える時と同じ考察回路が働くということは、紀元・・即ち、私達の時間について考えることは非常に哲学的なことなのだと気付きます。紀元0年付近はローマ帝国が更に巨大化をしている時代で、この頃の西洋哲学の中心がどこにあったのかは次週に書くことにして、今回はは取りあえず、「紀元」について考察してみようと思います。

時系列(ローマの場合)

古代ローマでは紀元前753年にローマ建国の王ロームルスの名をとったロムルス暦を採用し、紀元前713年には次代の王ヌマが採用したヌマ暦が利用されました(これらはローマ暦と呼ばれます)。古代ギリシア暦(太陰太陽暦)を元にした暦法で、当時の西洋の都市ではそれぞれの都市で基礎は古代ギリシア暦を使いながらも各都市が独特の暦を作成して運用ていたようですが、共和政ローマが拡大するにつれ、ローマ暦を採用する地域も拡大し、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日 からユリウス暦(太陽暦)が採用されると以後ローマを中心に広く西洋にひろがりました。紀元後の哲学を読み解いていく上で大切な要素だと個人的に考えています。

西暦
今私達が利用している西暦ですが、これの成り立ちは紀元後500年頃のローマの神学者であるデュオニュシウス エクシグウスに由来します。国の肥大化により3世紀頃のローマは軍事的にも社会的にも非常に不安定化しており崩壊の危機を迎えていましたが、そんな時代にローマ帝国の皇帝となったガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌスは、ローマ帝国を東と西に分割し、皇帝権を軍の同僚であるマクシミアヌスにも与え西方正帝とし、自身は東方正帝としてローマを分割管理して軍事力の安定化を図りましたが、軍内のキリスト教徒の傍若無人さに業を煮やしたディオクレティアヌスはキリスト教の大弾圧を行い多数のキリスト教徒を処刑しました・・・そんな怨念の時を忘れない為にディオクレティアヌス紀元の暦がキリスト教会で採用され、イースターの日(キリストの復活祭)を計算するためにアレクサンドリア教会で用いられたことを始まりにして、紀元後325年のニカイア公会議以降キリスト教全体に広がりました。しばらくの時を経て、紀元後525年、当時のローマ教皇ヨハネス1世からイースターの日(キリストの復活祭)の改訂を委託されたデュオニュシウス エクシグウスが、大弾圧を行ったディオクレティアヌスの名前を残すことを嫌い、新たに、キリストの生誕を紀元とした暦を提案したのが西暦の原型ですが、即座に広まった訳ではなく、1582年に正式にローマ教会が採用するまでは「一つの案」として留まっていました。現在の研究では聖書を読み解くと、キリストの誕生の日については諸説あるようですが、それによって今の暦を改変することがあるのかないのかは神のみぞ知りますね。

雑感
1582年10月15日 ローマ教皇グリゴリウス13世が制定「グリゴリオ暦」としてキリスト紀元の暦を採用すると、大航海時代との相乗効果で「西暦」は広く世界に広がって行く事になります。発明されてから実に1000年以上が経過しての大快挙ですが、これらも歴史をつぶさに見て行けば非常に緻密に計算されたことだと分かります・・それはまた中世の時代になったら書きましょう。ともかく、紀元0年付近の西洋というのは、まだ歴史という概念もなく、人々には日々の暮らしがあるだけで、時間的感覚があっても精々年単位の事であって、「あの人の時代はこうだった」というような「時代」という感覚も無く過ごして居たのではないだろうかと前提しておくことは、この時代の哲学を読むのに重要な視点ではないかと私個人は思います。また、自分自身の存在する時空の起点を設定することも、哲学する中では重要な要素だと思いますので、私達の住む西暦という世界の成り立ちを今回書いてみました。