2021年3月10日 本日の鹿児島県北西部は快晴。

日中は半袖でも過ごせる陽気・・・この位が丁度良いですねぇ・・バイクでカッ飛びたくなります。その昔、京葉道路で最高速チャレンジなんて無茶なことを一回だけした事があります。この間、同じ道路で大破した青いインプレッサのニュースを見てそんな若い時代の自分を思い出して遠い目になりました。亡くなったインプレッサのドライバーが常習だったか、生まれて初めての違法運転だったかは分かりませんが、この事故を見て多くの人が自分の運転を見つめ直すきっかけになったとしたら、故人も浮かばれるのではないだろうかと思ったり思わなかったり。人は必ず死にますが、故意に死ぬ確率を上げるのは愚かな行為です、「命知らずな行為」それが無知によるものだとするなら、どうやって子ども達に教えるべきなのか真剣に考える必要がありそうです。今こそ、自分の頭で考える教育を復活させてゆくべきと私個人は思います。過剰な糖質摂取も無知によって死ぬ確率を知らぬ間に上げている「命知らずな行為」の一つです。栄養学についても自分の頭で考える・・・健康に生き残るにはそういう姿勢が必要なのだろうと感じます。さて、哲学曜日です。本日は、ヘレニズム哲学期における懐疑主義

hana


懐疑主義-------以下Wikipediaより引用-------------
懐疑主義とは基本的原理・認識に対して、その普遍妥当性、客観性ないし蓋然性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも呼ばれる。これに対して、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから世界の構造を明らかにしようとする立場を独断主義(独: Dogmatismus)ないし独断論という。

懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない、あるいは無神論へとつながる破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が懐疑の結果、普遍妥当性および客観性ないし蓋然性ある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥って不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったからである。しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったこともあり、肯定的に語られることが多い。

経験的な証拠が欠如している主張の真実性、正確性、普遍妥当性を疑う認識論上の立場、および科学的・日常的な姿勢は科学的懐疑主義と呼ばれる。
-------------------引用終わり---------------------

西洋哲学における懐疑主義の始まりは、エリスのピュロン市(前365/360年頃ー前275/70年頃)の思想からだと言われています。ただ、ピュロン氏本人の手による文書等は残っておらず、後のピュロン主義者がまとめた著書「ピュロン哲学の概要」のみがそのエッセンスを伝えるだけだそうです。実際にはピュロン氏が最も熱心に懐疑主義を研究したという事で、ピュロン氏本人が懐疑主義者だったのかは分からないのだとか。ともかく、ピュロン氏に始まる懐疑主義研究は、その後のアカデメイアの思想転換に影響を与えたり、経験主義との親和性から医学や科学の発展の礎となって行きました。このピュロン主義はその後に、近世の大哲学者デカルト氏に大きな発想を与えるきっかけにもなります・・・それはまたデカルト氏に辿り着いた時に書きたいと思います。

古代的懐疑論を議論する際の10の方法は以下の項目と言われていますが、ピュロン派は17の方法を使っていたとも言われています。
〇比較する事物の構成要素を考える
〇比較する事物の構造的差異を考える
〇個性による感覚の違いを考える
〇比較する事象の状況を考える
〇観測地点による見え方の違いを考える
〇事物が重なる事で起こる変化を考える
〇事物の適切な量について考える
〇事物の相対性を考える
〇現象の確率について考える
〇論理の争点について考える

雑感
私自身は懐疑主義的思想で無神論者でありモナドロジカルな人間ですが、それでも、イデア論や神という概念そのものは否定していませんし、できません。真実は死んでみればわかるかもしれないので、その時のお楽しみですが、それを早く知りたいとは思いません。可能ならば10000年でも20000年でも生きて、この世界の理というものを物理学や天文学的な視点で人間として観察したいものです。ともかく、懐疑論が始まって、まだ2400年足らずです。巷では、さも現行科学が万能というような錯覚が常識化していますが、私達人間は、この世界の1%も知ってはいないのです。少しでも長生きして、人間として世界を知るためにも、過剰な糖質の摂取をやめて、健康な遺伝子が残って行くようにしたいものです。この機会に、適切な糖質の摂取量について考えてみませんか?この世界が健康長寿になるよう願います。10000年後も人間が人間として存在していますように。