2021年3月3日 本日の鹿児島県北西部は快晴。
快晴の日が続きます・・春までもう一息という感じ。透析に震え、寒さに震えた冬がようやく終わります、ここからが一年の始まりという感じですね。楽しく駆けて行きましょう♬
本日はキュニコス派について。
キュニコス派------------以下Wikipedia等から引用要約----------------------
ソクラテスの弟子であるアンティステネスを祖とするヘレニズム期の古代ギリシアの哲学の一派。 シニシズム(シニスム)、キニク学派(キニク派)、犬儒学派(犬儒派、犬のような乞食生活をしたから)ともいう。 ヘレニズム期の他の学派同様、倫理哲学にその特色をもつ。禁欲を重視するところではストア派とも通じるが、より実践を重んじ認識論的展開を見せなかった。無為自然を理想として、現実社会に対しては諦めた態度を取っており、古典期の社会(ポリス)参加を重視する倫理思想と大きく異なる。シノペのディオゲネスが有名である。英語で「嘲笑する」「皮肉屋な」「人を信じない」を意味する「シニカル(cynical)」は、キュニコス派を指す「cynic」の形容詞形である。
-------------------引用終わり---------------------------------------
キュニコス派は人類の四聖人の一人であるソクラテス氏の直系です。なので、質素な生活と道徳的な在り方を追求する傾向の強い思想集団でした。論理的思考よりは実践哲学的な所に重きがおかれて、中でも犬儒学派のディオゲネス氏は、犬の住むような酒樽の中で暮らし、学派の名前のように正に犬のような生活を送った事で有名です。
哲学というと、何かと小難しい言葉を並べて、他の考えを論破する事に重きが置かれているように感じる方も多いと思いますが、実践を通じて、本来の人の在り方を示そうと試みる考え方もあったことは心に留めておきたいですね。
現代でも、思想の前に実践ありきという姿勢の団体も沢山ありますので、それらはソクラテス直系の哲学体系を持っているとも言えるかもしれません。
ソクラテス氏の説いた「無知の知」を本当に理解する為には、あえて持たざる者になる必要があるのかもしれません。「どんなに蔑まれようが、疎外されようが、自分が無知であることを知っている分 お前よりはマシだ。」という孤高のプライド・・・・プライドの為に毒を飲んで死んだソクラテス氏の直系らしい見事なまでの生きっぷりですね。そんな人生に何の意味がある?なんてことは考えないという真っ直ぐなプライドは、ある意味、梵我一如の境地でこそできるのかもしれません。そういう意味では、プライドとは真逆という事になりますが・・・真実はいかに。
雑感
個人的にはキュニコス派は考えることを放棄した集団のように感じることもあります。都市国家が膨れ上がる中で、原点回帰することの大切さを伝える為に犬のように生きるなんていう極端なことをしたのだろうと思ったりします。その反面、仏教でいう所の「悟りの境地」に至ることを目指した集団だったのではないかと思う事も。詳しい文献などは殆どないので真相は分かりませんが、彼らが自分の信念に生きたということは間違いの無い事だと思います。私も生物的な死を経て、20年かけて行ってきた終活も終盤という感じですが、物質的遺産はできるだけ残さずに逝きたいものです。
快晴の日が続きます・・春までもう一息という感じ。透析に震え、寒さに震えた冬がようやく終わります、ここからが一年の始まりという感じですね。楽しく駆けて行きましょう♬
本日はキュニコス派について。
キュニコス派------------以下Wikipedia等から引用要約----------------------
ソクラテスの弟子であるアンティステネスを祖とするヘレニズム期の古代ギリシアの哲学の一派。 シニシズム(シニスム)、キニク学派(キニク派)、犬儒学派(犬儒派、犬のような乞食生活をしたから)ともいう。 ヘレニズム期の他の学派同様、倫理哲学にその特色をもつ。禁欲を重視するところではストア派とも通じるが、より実践を重んじ認識論的展開を見せなかった。無為自然を理想として、現実社会に対しては諦めた態度を取っており、古典期の社会(ポリス)参加を重視する倫理思想と大きく異なる。シノペのディオゲネスが有名である。英語で「嘲笑する」「皮肉屋な」「人を信じない」を意味する「シニカル(cynical)」は、キュニコス派を指す「cynic」の形容詞形である。
-------------------引用終わり---------------------------------------
キュニコス派は人類の四聖人の一人であるソクラテス氏の直系です。なので、質素な生活と道徳的な在り方を追求する傾向の強い思想集団でした。論理的思考よりは実践哲学的な所に重きがおかれて、中でも犬儒学派のディオゲネス氏は、犬の住むような酒樽の中で暮らし、学派の名前のように正に犬のような生活を送った事で有名です。
哲学というと、何かと小難しい言葉を並べて、他の考えを論破する事に重きが置かれているように感じる方も多いと思いますが、実践を通じて、本来の人の在り方を示そうと試みる考え方もあったことは心に留めておきたいですね。
現代でも、思想の前に実践ありきという姿勢の団体も沢山ありますので、それらはソクラテス直系の哲学体系を持っているとも言えるかもしれません。
ソクラテス氏の説いた「無知の知」を本当に理解する為には、あえて持たざる者になる必要があるのかもしれません。「どんなに蔑まれようが、疎外されようが、自分が無知であることを知っている分 お前よりはマシだ。」という孤高のプライド・・・・プライドの為に毒を飲んで死んだソクラテス氏の直系らしい見事なまでの生きっぷりですね。そんな人生に何の意味がある?なんてことは考えないという真っ直ぐなプライドは、ある意味、梵我一如の境地でこそできるのかもしれません。そういう意味では、プライドとは真逆という事になりますが・・・真実はいかに。
雑感
個人的にはキュニコス派は考えることを放棄した集団のように感じることもあります。都市国家が膨れ上がる中で、原点回帰することの大切さを伝える為に犬のように生きるなんていう極端なことをしたのだろうと思ったりします。その反面、仏教でいう所の「悟りの境地」に至ることを目指した集団だったのではないかと思う事も。詳しい文献などは殆どないので真相は分かりませんが、彼らが自分の信念に生きたということは間違いの無い事だと思います。私も生物的な死を経て、20年かけて行ってきた終活も終盤という感じですが、物質的遺産はできるだけ残さずに逝きたいものです。
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