2021年2月3日 本日の鹿児島県北西部は快晴。

スーチーさん、昔はずっと軟禁されて可哀そうだなと思っていたのですが、伝わってくる情報だと支配者体質のようで、民主化とは真反対の人のようですね。もちろん、今伝わっている情報も正しいかはわかりませんので、実際に会って話を聞いてみるまでは、「両論あった人」という認識でいようと思います。ミャンマーの人々が幸せに暮らせますよう、心から祈ります。では、形而上学十三巻「M」です。形而上学最後の巻で御座います。

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形而上学第十三巻「M」の目次(出 隆氏訳昭和36年岩波書店発行より抜粋)

第一章 感覚的な実体のほかに不動で永遠的な実体が存在するか否かの研究こうした実体として数学的対象とイデアとがあげられているから、我々は、まず(一)数学的対象について、つぎに(二)イデアについて、最 後に(三)数やイデアが感覚的事物の実体であるか否かについて検討し よう。

第二章 (一)数学的対象について。それらは感覚的事物のうちにある特定の実体ではなく、また感覚的事物から離れて存する実体でもない。

第三章 それらは、ただ抽離されて、思想のなかに存するのみであり、数学的諸学科は、感覚的事物を、ただ数とし大きさとして考察する。だが、数学が美の考察と無関係であるという非難は不当である。

第四章 (二)イデアについて。イデアが想定されるにいたった理由、イデア説の由来。ソクラテスは普遍を感覚的事物から離れて存するとはしなかった。イデア説批判、ーイデアの想定は、感覚的事物の存在理由の説明には、或る意味では余計であり、或る意味では不足である。

第五章 イデア説批判の続き、イデアの想定は、感覚的事物の転化を説明しえない。 

第六章 (三)数を感覚的事物から離れて存する実体であるとし、感覚的事物の原因であるとする諸見解について。数学的の数は比較可能的である こと。イデアと数学的の数との両種の実体をあげるプラトンの説と数 学的の数のみを実体とするスペウシッポスの說その他についての検討。
第七章 プラトンの数論、とくにエイドス的の数について。|各の数をなす単位どもが相互に比較可能的であるべきならば、数学的な数より ほかにエイドス的の数はありえない。同じ数のうちの単位どものみが比較可能的であるとしても、エイドス的の数はありえない。 

第八章 スペウシッポス や ピタゴラス学徒などの実体としての数の論にもプラトン のと同様の難点がある。ふたたびェイドス的の数の説に対する 反論、―いかにして数の諸単位が不定の二から生成しえようか、数の系列は無限か有限か、一それ自体がいかなる実体でありえようか。

第九章 数学的諸対象、とくに点・線・面・立体など(幾何学的諸対象)の生成の原理に関する諸見解の検討。数を一と多さとから生成するとする説、大きさを一と多さとから生成するとする説などの批判。エイドス 的の数に対する批判の総括。ふたたびイデア論について。イデア論者 は結局、イデアを普遍的なのであるとすると同時に個別的なのであるとするものである。

第十章 実体をどのような意味で離れて存するものとすべきか。諸実体の原理はどのような意味で普遍的であり、どのような意味で個別的であるか。

雑感
この巻はイデア論に対する批判と反証、そして、実体の捉え方について巻です。第一巻から順に読み進めた方なら、そんなに難しいことは書いてありませんので、ささっと読めると思います。数学的な素材の扱い方や考え方を再考できるので、数学が好きな人は好きな巻かもしれませんね。いよいよ、次回が形而上学の最終巻ですが、目次だけを書くだけでも中々大変な作業です。こんなことをして何の役に立つのか?なんて思ったそこのあなた!学問に見返りを求めてはつまらないですよ。とは言え、浪漫を求めるも、利益を求めるも自由です。この文章に出会ったことにきっと意味があるのだと思います。是非、来世でお会いしましょう♬